林道郎教授は「論文指導した場所がたまたまラブホだっただけ」(出典:前掲記事)との趣旨のコメントを発しています。
僕はここで、自分が上智大学在学中に指導を受けたことのある女性の教授たちのことを思い返してみました。
先生の研究室で1対1、すなわち2人きりになることは何度かある。
食事をご一緒したこともあるけど、それはサシではなく他の先生なり学生も一緒だった。
僕は学卒で、大学院には進んでいないので、教授との距離感なりコンタクトを取る頻度は知れているかもしれない。
しかし、いくら研究を進めて、2人きりで過ごす時間が増えたとして、僕を指導して下さった教授たちと、2人きりで食事だとか、ホテルに誘い出すようなことが果たして起きるだろうか?
否、いかに想像力をたくましくして自問自答を繰り返しても、そういう状況に陥るとは考えられませんでした。彼女たちは一様にプロフェッショナルでした。
もちろん、僕に男性としての魅力がないから教授が食指をそそられなかっただけ、という残念なオチも充分あり得るわけですが、ひとつ言えるのは、教授と教え子が2人きりになったり、それで長時間話し合うことは、男女間の性的な関係に陥る為の必要条件であったとしても、十分条件ではないということ。
散歩のついでにたまたま富士山を登頂してくる人などいないように、論文指導のついでにたまたま性交いたしてしまいましたということはありえず、富士山を登るんだという意志があってそれなりの準備をしているから登頂が実現するように、エッチをする意志を持っている人だけが、それなりの準備をしたうえでそのチャンスをとらまえて本懐を遂げることができるのではないでしょうか。
よしんばそういう雰囲気になることがあったとして、仮に僕のほうが教授を誘うのだとしても、大学のすぐ裏手にホテルニューオータニがあるのだから、わざわざ歌舞伎町に行く必要はないだろうと思ってしまいます。
愛する人といたす為に宿代をケチってラブホで済まそうという男性には、同性の僕から見ても魅力を感じませんし、女性から見た場合、年長でそれなりの稼ぎもあるであろう男性が、自分との秘め事の場所に歌舞伎町のラブホを選ぶということは、自分がいかにも値踏みされている、言葉を選ばずに言えばその程度の洗濯女にされているだけ、とは感じないでしょうか。
林道郎教授の発した「たまたまラブホで論文指導」なる一種のパワーワードに注目してしまい、性交渉に偏った話になってしまいましたが、それ以外にもA子さんは林道郎教授のアシスタントとして、無償での労働を長く続けていたとの報道もあります。
僕の感想を申し上げると、女中かつ洗濯女にされてもなお関係を続けたというのは、A子さんに無償のご奉仕をいくらでも捧げたいと願う揺るぎない恋愛感情があったというよりはむしろ、「日本の美術評論ではトップの人物。ミスター美術史とも呼ばれている」(出典:同)林道郎教授の言いなりにならないと自分の研究者としてのキャリアーが絶たれるかもしれない、拒めばどんな妨害や圧力がかかるか分からないという怯えから、関係を続けざるを得なかったということではないでしょうか。
少なくとも、林道郎教授が裁判で主張する「自立した成人同士の自由恋愛」(出典:同)にしてはかなりいびつな形態であるように見えてしまうのですが。
(文責・水野)
【おことわり】
社会通念上、代理人もしくは弁護士の言動は依頼人本人と同じと見なされるべきであり、代理人が矩を踰えて依頼人と異なる独自の主張をすることはあり得ません。即ち、弁護士の主張は林道郎教授本人のそれと捉える必要があると判断しますので、本稿では以後、代理人や弁護士などのコメントは林道郎教授のものとして扱います。